能登・加賀を行く
里山保全のためにできること

9月、mudef理事の信藤三雄氏とSATOYAMA BASKETスタッフは石川県能登空港へ向った。
目的は里山の視察と撮影だ。
そしてもう一つは、実際に里山で生活を営み、暮らす方たちから話を聞きたいという思いもあった。
日本は国土の67%が森林におおわれている。これは、昔から日本では森に囲まれた土地で人々が暮らしてきたこと、その狭い土地をいかに有効に使っていくかがか課題だったことを意味している。里山が国土の約4割を占めるといわれているのが、その表れだろう。里山は、日本の自然環境から必然的に生み出された歴史の産物であるとも言えるだろう。今回、里山の訪問を通じて、改めて、里山の歴史や私たちの生活との結びつきを考えたいと思い、その地を訪れることになった。

里山とは

まず里山とは何か。

里山は、人の手がほとんど入っていない「奥山」に対置する言葉として語られている。
「里山」を構成する2本柱は、雑木林と農耕地だ。雑木林は、かつては薪や炭などの燃料をとるための林として、人の手で作り出された。育ちが早く、燃料として優れている木を中心に、人が育て、繰り返し利用されてきた。炭焼きは十数年のサイクルで木を伐る場所を移動する。その十数年間で切り倒された木の切り株から新たな芽が出、再び燃料として利用可能な大きさにまで育つ。たとえば石川県の里山でよく見られる木に「コナラ」があるが、このコナラはやせた土地でも生育可能であり、伐採しても切り株から芽をだし、再び生長するため、人に広く利用されてきた。
燃料とするため木が定期的に伐採され、落ち葉や下草が肥料などに利用するために適度に取り除かれることにより、冬から春には陽がよく差し込む明るい環境が広がっていた。その結果、カタクリやスミレなど、明るい林を好み、春に花を咲かせる植物が生育し、その植物を訪れるギフチョウなども多く見られた。また、秋には食用キノコなどを採ることも可能であり、人々の生活と非常に密着した場でもあった。
農耕地は、石川県では主に田んぼを意味している。この田んぼは、主食であるコメを生産する場であったが、水耕栽培であることから、ため池や水路など、水を維持するための仕組みが古くから発達してきた。丘陵地や低山の谷間にある、周りを雑木林に囲まれた田んぼは「やち田」とも呼ばれる。このやち田では、春先までため池に水をためておき、代掻きの前に田んぼに水が引かれてきた。田んぼややち田、それをつなぐ水路は、生きものの生息場所として重要な役割を担っている。田んぼで毎年行われる田起こしや水入れ、ため池の干し上げや水路の掃除などは、トノサマガエルやサンショウウオなどの両生類や、トンボにとって格好の住処でもある。また、水中にすむドジョウやタニシ、セリなどは食用としても利用されてきた。

里山はもちろん雑木林や農耕地だけではなく、集落、植林地、採草地、竹林、社叢林など様々な要素が絡み、モザイク状の複雑な環境を形成している。水の便が最も良い場所には集落があり、その周囲に田んぼや畑が作られ、山に向かうにつれて植林地や雑木林が広がるのが、一般的な里山の風景と言える。集落の裏山には水源やなだれ防止のために木を伐らない場合も多く、ブナやケヤキ、シイ、カシなどの大木が立ち並ぶ森林になっているところもある。

cmenu-46-p03.jpg 加賀市山中温泉大土町の集落。

この里山が生物多様性を語るうえで重要なキーワードとなったのはなぜか。
一つには、この里山が生物多様性を支える場所、多くの生きものが暮らす場所であることがあげられる。国際NGO、コンサベーション・インターナショナルによれば、日本は世界でも生物多様性が豊かでありながら、その損失が深刻と考えられる「ホットスポット」のひとつに数えられている(世界全体で34か所)。日本の特徴としては南北に細長い地形であり高低差に富むことから、多様な植生と島であるための固有種が多く存在することがあげられるが、これらの中には里山を主な生活の場にしているものも多い。
複雑なモザイク状の環境を有することは、それだけ多くの生きものが暮らし、複雑な生態系を維持していることとにもつながる。その意味で、石川の状況は生物多様性を考える際に不可欠だといえるだろう。

里山はまた、私たちが心に思い描く「ふるさと」の情景でもある。自然と人間が出合い、共生する姿勢が、日本の四季を愛で、自然になじむ文化を生み出したといわれるが、それも里山のような原風景を持っていることも理由に挙げられるだろう。日本の文化や伝統、そして私たちの生活習慣を形成するのに、この里山は不可欠であったといえる。

金蔵・金のツルが舞い降りた地

初めに訪れたのは、にほんの里100選にも選ばれた、輪島市金蔵地区だ。扇形に広がる金蔵地区には、現在64世帯が暮らしている。
この地は、言い伝えでは金のツルが舞い降りたのだという。もともと金蔵地区は山岳宗教が盛んであり、天台宗の寺が複数建立していた地では、年貢となる米を領主におさめない、独自の経済圏を有していた。菩薩をまつる仏田として、存在していたのだと、金蔵地区を案内してくれた石崎さんは話す。その振る舞いが咎められ、16世紀にはそれが理由で焼き討ちにもあっている。この焼き討ちにあった寺のあった場所に、かつて金のツルが舞い降りたとされており、その地にお寺がたてられたのだと話す。
三方を山に囲まれた金蔵地区は、古くから霊山として崇められてきた山と山を結ぶ線上に位置する。こうした地形的な理由もあり、金のツルが舞い降りたのだと、石崎さんは話してくれた。

また、金蔵地区はかつて鉄を作るたたら場があったことも、判明している。1100年代に書かれた古事記でも金蔵地区について触れられている個所があるが、そこでも鉄を作る能登の人の話が紹介されていた。鉄はかつては山から山へ移動して作られており、製鉄職人は山の民と考えられてきた。能登は文化人類学でいう「まれ人」がいる地区として知られているが、こうした「異なる世界」に住む人との交流も、金蔵地区の伝承に彩りを添えている。

この金蔵地区で古くから家を構える井池さん。話してくれたおばあさんは結婚して60年になるという。「昔は田んぼもすべて手作業。小さな田んぼに鍬頭(くわがしら)を筆頭に入って、田植えや稲刈をしたけれど、戦後は鍬頭もいなくなり、大変だった。昭和46年に耕運機が来て、平成になってコンバインが来たんです。」

輪島市北東部、
町野町金蔵地域は
日本の里100選にも選ばれている。
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田んぼといっても機械が入る前は整備されておらず、それこそ時間も、労力もかかる。この地区では「ととらく」と言って女性が働き、男性が楽をするという言葉もあるそうだが、その苦労は大変だったのだろう「お父さんは何もしなかった」の口ぐせに、みんなで大笑いをしてしまった。

 

とはいえ、彼らの話は非常に示唆に富んでいる。里山の景観やその意義が指摘されるものの、維持することには困難を伴う。とくに機械化が難しい。機械を入れることが難しい小さな田んぼは、いまだに人の手で耕さなければならない。また農業全体の高齢化とも関連して、農作業に従事している人も決して若くはない。国土の4割を占める里山が、次世代への継承という意味で、今大きな試練を受けている。

炭焼きを継承する

次に訪れたのが輪島市野町寺山。炭焼き職人の元を訪れた。
もともと能登や加賀は、室町時代より木炭の産地として有名であり、金沢で盛んな茶の湯のための良質なお茶炭を生産することでも知られていた。幕末期の能美郡の農作業を図解した「民家検労図」には、農耕や山作業、海川の仕事と炭焼きが生活の中で一体となっていたことも紹介している。明治期以降は庶民の生活向上に伴う炭の需要の増加などで、農業の副業として炭焼きは盛んになった。第1次世界大戦後には景気上昇により炭の需要は拡大をたどり、昭和初期には石川県内で木炭生産は山村経済の中心となった。戦争中も石油の代用品として重宝された。
しかし昭和30年代(1955年以降)のプロパンガスの普及に伴い、木炭の生産量や製造者も激減した。現在、石川県内の木炭生産者は約30人。能登半島を中心にその産業が維持されている。

cmenu-46-p02.jpg 輪島市野町寺山の炭焼き小屋。

訪れた炭焼き職人の家では夫婦で炭焼きを行っていた。炭焼きでは、まず木炭の原料となるコナラの木を切り出すことから始まるが、コナラの木は周辺の山からは取れないので、別のところから運び込む。かつては周辺の雑木林に生えていたコナラも、戦後の植林政策により、杉などの針葉樹に代わってしまった。「針葉樹は木炭にするには柔らかくて向いていない」のだそうだ。現在は近くの山で切り出すかお金を支払って購入するしかない。
切り出した木を窯につめ、木の水分を取り出した後で炊込みを行う。すべての原木に火がまんべんなくいきわたるようにしなければならない、繊細な作業だ。窯の中でゆっくり炊き上げることで、良質な炭を作ることが可能になる。その後、煙が出なくなったら窯の中を密閉し、自然に窯が覚めるのを待つ。すべての工程が終了するのにかかる時間は約2週間から20日余り。根気のいる作業だ。

かつては山から山へ移動しながら作られた炭は、現在は定住した地で作っている。周囲を覆うのは、炭の材料にはならない人工林だ。炭の作業を見直すには、まずは周辺地区の森から見直し、再生することも必要になる。また、その森林を再生するために、かつて炭焼ききが盛んだった時代に恒常的に行われてきた炭の原料を育てるための手入れも継続的に行う必要がある。

炭は品評会に出品するため、
きれいに収められていた
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かつての、手入れをしながら自然環境と共存することで維持してきた、里山の環境は急激に失われている。日本の林業の衰退が指摘されているが、その衰退が里山にも影響している。里山の保全が叫ばれているが、産業と結びつかなければ、里山を保全していくことは難しい。

近年は生物多様性の保全が語られるときに「持続可能な」という言葉が加えられる。持続可能であるためには、産業の再生が不可欠でもある。

「限界を超えた限界集落」

輪島市を出てから、車で一路南下し、加賀市山中温泉へ向かう。南加賀地域に位置する山中温泉は、隣県との県境に位置する。この山中温泉から奥まったところにある東谷地区の集落大土町を訪れた。早朝の地区は、朝靄がかかり、この地区独特の赤レンガ色の屋根の連なりが、靄の中で幻想的に見える。

cmenu-46-p06.jpg 赤いレンガが特徴の東谷地区の建物。

しばらくしてこの地区を案内してくれる二枚田さんがやってきた。この地区で幼少期を過ごした二枚田さんは、現在は地区保全や棚田の農作業などを目的に通ってきているのだという。「現在東谷地区大土町に住んでいるのは、高齢のご夫婦2名だけなんです」。
現在暮らしている一組のご夫婦も、雪が積もる冬季には山中温泉へ下りるのだという。
「この地区は昔はよく雪が積もったんです。私が子どものときは、豪雪で一週間閉じ込められたこともありますよ。そのときは自衛隊のヘリコプターが飛んできて、裏山に缶詰とか落としてくれましたよ」と笑いながら話してくれた。

東谷地区大土町には明治の初めには40名余りが住んでいた。現在空き地となっている場所には、小学校の分校も設立されていた。しかし2回にわたる北海道への集団移住。さらに昭和13年に火事で住居が消失、この町に特徴的な土蔵も6件ほど残してすべて焼け落ちてしまった。そしてそれを契機に、人離れが進んだのだという。かつてあった漬物屋の工場は、町の集会場となっていた。

東谷地区の周辺も、これまで見てきた地区と変わらず、人工林の杉でおおわれていた。その前は杉もなく、斜面を利用した耕作や、冬季にはスキー遊びもできたのだそうだ。現在の林は、定期的な手入れのおかげで、状態は決して悪い訳ではない。「とはいっても、この杉の木を切り出して木材として使用する予定はないんです」戦後の林業目的の植林は、経済構造の転換の結果、本来の産業振興の目的を失っていた。

棚田で獲れた米を干す。 cmenu-46-p07.jpg

二枚田さんは現在大土町で24枚の棚田を使って無農薬のコメつくりを行っている。無農薬だし田んぼも広い訳ではないので、その収穫量は120キロと決して多くはない。最近では、これまで出現しなかったイノシシが連日のように田畑を荒らすため、その収穫量にも大きな影響を与えている。実は今回の視察で何回か聞いたのは、イノシシの出現だった。「これまで来たことがない地域でもイノシシが出現している」。温暖化の影響で、イノシシの生息地の北限が上昇していると推測されている。住民が少なく、耕作地の面積も小さいこの地区では、イノシシの被害から農作物を守るために十分な対策を立てることも難しい。「行政にも本気で考えてほしいんですけどね」という二枚田さんの表情は真剣だ。

現在二枚田さんは、残っている家の持ち主の許可を得て、夏休みなどを利用した子どもの自然体験キャンプを実施している。子どもたちにとっては里山で生活するのは初めての体験だ。下水処理のないトイレに拒否反応を示す子どもも多い。便利になった生活からいきなり里山の生活になるギャップは大きい。そろそろトイレの設備の見直しを考えているという二枚田さんの話に思わず頷いてしまった。

限界集落、という言葉がある。人口の半数以上が65歳以上の高齢者となり、コミュニティの存続が難しい状況のことだ。限界集落という言葉への批判も高いが、しかし東谷地区では、限界集落というよりは、ボランティアの手があって初めて維持されている地区だといえる。住宅地の回りを囲む花々や農耕地も、石川県内のボランティアによるものだ。

里山では現在、過疎化や高齢化が大きな問題となっている。東谷地区だけではなく、過疎化や高齢化によって地区の景観の保全が困難になっている地区は多い。そしてその結果、生物多様性が損なわれ、これまで機能してきた生きもののつながりが失われるケースも多い。

また、その地域の文化の伝承が途絶えることも問題だ。大土町には大正9年に建立された大土神社があるが、過疎化によって、この神社の維持や、祭礼の実施などは難しい。

東谷地区を後にして向かった山中温泉では、山中漆器の塗師を紹介していただいた。山中温泉では漆器の生産が盛んで、今なお多くの職人が、生計を立てている。それを支えるのは徒弟制度に裏打ちされた山中漆器の伝統を継承する仕組みだ。どんな制度であれ、文化や伝統を継承するためには一つの世代から次の世代へ、というつながりが不可欠だ。繰り返しの作業を通じて、体でその技法を身に付ける試みは、文化や伝統が持つ重みの表れでもある。

cmenu-46-p08.jpg 山中塗は工程ごとに
作業に従事する人が異なる。
訪問した塗師の方も、
師匠に弟子入りして腕を磨いた。

朝に眺めた東谷地区が物哀しい風景として見えたのだとしたら、その美しい景色を継承する人がほとんどいないことに対する哀しさにもよるのではないか。そのように感じた。

米から日本酒、そして文化へ

石川県を離れる前に訪れたのは、小松市にある古くからの造り酒屋の「東酒造」だ。ここでは代々日本酒つくりを営んでおり、現在の当主で6代目となる。先代の当主が、庭にある茶室を見せてくれた。苔で全体をおおわれた庭は、伝統的な日本庭園であり、私たちにとってなじみ深いものだ。水の豊かな石川県では日本酒作りも盛んで、東酒造もその一つだ。
生態系を維持し、豊かないきもののつながりを保つためには水田が欠かせないが、そこからさらに私たち日本人の食文化を彩る日本酒も生み出された。そして日本酒造りだけではなく、伝統文化の形成や茶道のたしなみなど、さまざまな形へ昇華している。

人々の生活から文化が生まれる。生活が各地によって異なり、その多様性が存在することで文化の多様性を生み出した。石川県の豊かな伝統文化は、その豊かな生活に根差している。そしてその豊かさの根源にあるのが加賀や能登をはじめとする各地の農村であり、その農村を形成する里山だ。

私たちの生活は生物多様性と切り離せない。そのようにあらためて感じる旅となった。

今回の視察は石川県庁の広報スタッフにお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。